佐波理綴の創始者 池口定男は、昭和10年(1935年)に京都・西陣の織屋業の家に生まれました。家に伝わる文書によると、父方の池口家のルーツは平安時代の刀工 三条小鍛治宗近に端緒を見出すことができ、また母方の井関家は、元亀2年(1571年)に天皇の御衣装束の制作を許される御寮織物司に選ばれた六家の筆頭 紋屋井関。先祖から受け継がれた「ものづくり」の遺伝子と、生まれた時から常に誰かが機音を立てている環境が、後に「織の宝石 佐波理綴」の誕生へと繋がります。
家系図(pdf, 143kb)
終戦を小学4年生で迎えた定男は、家業の織屋の手伝いをしながら新制中学、高校と進み、昭和32年(1957年)に同志社大学を卒業するとともに家業の株式会社池口(現在のおり久)に入社します。そこで研鑽を積んでいた昭和47年(1972年)、東京で行われた着物ショーに参加した時のこと。観客席が薄明かりに転じると同時に、観客のひとりが装っていた定男の自信作の帯が色褪せる瞬間を目にし、大きな衝撃を受けます。
「電灯が発明されて1世紀が経つのに、織の技術は昔のまま。現代の照明環境に映える織の技術を生み出したい」10年にわたる定男の新しい織技術に向けた試行錯誤が始まります。
開発に向けたヒントは、ダイヤモンドのカットに見出しました。「宝石の輝きは石そのものの価値よりも入れたカットの角度によって発生する方が大きい」という、当時英会話を習っていたオーストラリア人のジュエリーデザイナー ブルース・ハーディング氏の何気ないことばがきっかけでした。以後、織物の中に角度を織り込みながら毎日試行錯誤を繰り返す日々を送ります。
この苦しい試行錯誤の時代に、ひとつの大きな出会いがありました。それは、室町時代に隆盛を極め、後に技術の途絶えた縫締絞り技法の文様染め「辻が花」の復活に挑んでいた久保田一竹氏です。昭和53年(1978年)の晩秋に京都ロイヤルホテルで開催されていた同氏の個展で出会ったふたりは、意気投合し、交流が始まりました。
そして1982年11月。目指した織技法にようやくたどりついた試作織が、新高輪プリンスホテル「飛天の間」をはじめとする全国4会場で開催された、久保田一竹氏の「The Show」の中で紹介されることとなりました。その前年の1981年10月に東京で開催された正倉院展で、錫と鉛が含まれた銅合金の鋺「佐波理加盤」と出会い、その奥深いところからにじみ出る光に、目指してきた新しい織の本質と相通じるものを感じて、誕生したその織技法に「佐波理綴」と命名、デビューを果たしました。
<明るい太陽光の下では落ち着いた表情を見せ、屋内の電灯のあかりの下では、まるで光そのものを織り込んだように輝き色彩が変化する>
これまでに類の無い織物「佐波理綴」は、大変な評判を呼び、国内は元より、イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストラリアなど各国で展覧会が開催されて人気を博し、繊維不況が叫ばれる現在においても、陰りを見せません。定男は、その人気に胡坐をかくことなく、常に改善・改良を重ね、取得した特許の数は12件にものぼり、その精神は平成23年(2011年)に二代目を継いだ池口友啓によって受け継がれています。